浄光寺ホームページ


2010年05月15日(土)
親鸞聖人御旧跡 24輩21番 唯仏房

〔法諱〕浄光、唯仏      〔生没〕不詳

〔俗名〕藤原隼人佑頼貞    〔生地〕薩摩梅原(鹿児島)

〔出自〕藤原氏        〔師匠〕親鸞

〔事績〕壮年のころ薩摩土り常陸国に移り、貞応元年(一二ニニ)、稲田の草庵で親鸞聖人に帰依して門弟となり、法名の唯仏房を賜った。

●浄光寺=茨城県ひたちなか市館山。はじめ常陸吉田枝川(水戸)に建立、後に水戸城内に移転、そして現在地へと移った。水戸徳川家との深い関わりを持つ。  本文参照

●勝楽寺=長野県土高井郡。これらが唯仏房ゆかりの寺である。

「鍋かぶり如来」伝説

 浄光寺は、ひたちなか市館山にある浄土貞宗本願寺派の寺院で、親鸞聖人二土四輩第二土一番の寺である。

 街地に突き出た館山と呼ばれる、高さ二十メートルほどの台地がある。南側の石段を登ると寺と墓地ばかりの、いわゆる霊山である。ここには浄土真宗本願寺派の寺院が七ヵ寺あり、元禄九年(一六九六)、前藩土徳川光圀の命により、城下各地から、ここに曳寺されたもので、この館山の中央、北側に位置するのが浄光寺である。

 寺伝に土ると、浄光寺の始まりは、貞応元年(一二ニニ)、藤原隼人佑頼貞が枝川の地に草庵を結んだことによる。頼貞はそのころ稲田に来ていた親鸞聖人に会ってその教化を受け、他力本願の有難さに感激し、親鸞聖人に帰依し、剃髪して唯仏房浄光と名のるようになった。

 天正二年(一五七四)、第十九代藩土佐竹義宣は常陸太田の磯部に寺領三土貫の土地を仏供料として与え、大正十九年には枝川の堂宇を水戸城内に移した。義宣は浄土真宗を信仰し、本尊の阿弥陀如来に深く帰依し、浄光寺のためにいろいろ援助を与えてきたのである。後の元禄九年 (一六九六)三月水戸中納言光圀公より、湊村古館の地(現館山)に一万千六百五坪及び人夫二万人等の寄付を賜り、堂宇をこの地に移した。殿堂は荘厳にして華美粋を極め、金光さんらんとしてまばゆく当国第一の巨刹にして、実に関東別院と称された。本願寺第四世善如上人は、幼齢十四歳の時、光養丸と称され、三ヵ年住職を務められている。また十九代住職唯弘のもとへは、光圀公養女、たにん姫が輿入れをしている。

天狗諸生激戦の地


 維新前、水戸藩の紛争は、元治元年(一八六四)の秋さらに激化、八月中旬の尊皇攘夷派の湊進攻(旧地名那珂郡湊村)により、十月二十三日の終結までのニケ月余り、湊全域が戦場と化した。この館山には、水戸藩士武田耕雲斎を中心とする天狗党の一隊が布陣し、幕府追討軍や諸生派と対峙したのである。このころ湊には、水戸藩主名代として、江戸より領内鎮撫のため下向した支藩の宍戸藩主松平頼徳の率いる一隊が布陣しており、諸生派らと応戦したから、館山をはじめ湊全域は、大きな被害を蒙ったのである。むろん浄光寺も兵火にかかり、荘厳を極めた十一間四面の本堂も失った。ニヶ月の間館山浄光寺に本拠をおいた武田耕雲斎らの一行は、この地を脱出していったのである。


 今、浄光寺の墓地には、当時の戦いで戦死した追討軍・福島藩兵の墓石が十基ひそかに建っている。なお浄光寺は、の住職が、諸生派の頭領市川三左衛門の縁戚になっていたため、諸生派に通じていたとされ、明治維新後しばらくの間当地から追放となった。寺も廃寺となり、史跡の面影を失ったが、檀家の熱心な運動により、明治十一年に再興された。

 また文献によると境内には、水戸徳川藩主頼房の五男で光圀公の弟の府中(現石岡)藩主松平播磨守頼隆と室、寿光院(浄土真宗興正寺派の姫)の墓があるとあり、天保六年五月九日、徳川斉昭公(水戸藩九代藩主)が墓参の際に墓印の樹を御覧になって、「不思議の樹よ」と仰せられ、「ナンジャモンジャ」と名づけられた、とある。それがどのあたりなのか不明であったが、平成十四年に確認され、樹も菩提樹とわかった。

唯空房の身替りとなった本尊


 浄光寺が水戸城内にあったころ、住職唯空房を訴人した者があった。佐竹家の祖先伝来の宝物「波切の宝剣」がひそかに隠され、城内に騒動が起きた時、これを「唯空房の仕業だ」と訴えたのだ。義宣公は、これを聞き、「僧侶の身にして刀の要るべき道理なし」と、唯空房を焼鍋の拷問に決した。家老の中川土佐守と家臣が見張りの役として常陸太田在磯部で焼鍋をかぶせる拷問を行った。ところが不思議なことに、熱火の鍋をかぶせられても唯空房の姿は平常と少しも変わりなく、称名の声も高らかに四辺を圧した。役人はいよいよ手強く責めるのだが、相変わらず自若としている。そのうち城内から「上意上意」と呼ばわりながら早馬で役人が駆けつけ、城主からの「即刻赦免」の命を伝えた。それは次のことが明らかになったからだった。

 浄光寺境内一面に黒煙がたちこめたので、城主が不思議に思い、近臣に命じ堂内を調べさせたところ、本尊の厨子が黒煙に包まれていた。そこで扉を開くと、如来の頭は赤く焼けただれて焦熱の苦しみを続けている。その慈顔の両眼からは、血の涙が流れている。「これは唯空房が冤罪を蒙り、焼鍋の拷問にされたのを悲しんだ如来が身替わりになっているのだ」と、城主は気づいて急使を磯部へ出したのであった。

 刑場にいた役人は奇異の思いで如来の有難さに感動したのである。そして唯空房に対して害心を抱いていた中川土佐守と家臣は懺悔の涙を流し、以来真宗に帰依するようになった。

 唯空房は実在の人であり、この時の歌も残されている。

 別れ路をさのみ嘆くな法の友また逢う国もある

 伝説には都合の良い遺詠であるが、拷問を受けたのは文禄元年八月十四日とあり、伝説ではなく真実にも思える。

 また、この水戸城佐竹候の旧門は現在「浄光寺山門」として今も残っ

ている。

 本尊は阿弥陀如来立像で、仏師春日作であり、西本願寺の阿弥陀如来と同時期の作とされている。

 寺宝として、開基唯仏房御木像(自作)、十六羅漢御絵像(恵心僧都源信筆)、六字名号(親鸞聖人御筆)、金泥九字名号(親鸞聖人御筆)、黒筆十字名号(親鸞聖人御筆)、帳外御和讃(蓮如上人筆)、光圀公書簡、など二百数十点におよぶ。


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